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クイズ三國志 知略の覇者 【くいずさんごくし ちりゃくのはしゃ】 ジャンル クイズゲーム 対応機種 アーケード 発売・開発元 カプコン 稼働開始日 1991年6月 プレイ人数 1~2人 判定 なし ポイント 国取りクイズゲーム第2弾しかし2匹目のドジョウはいなかった 概要 ゲーム内容 評価点 問題点 総評 移植版 概要 1991年1月にカプコンよりリリースされた『クイズ殿様の野望』(以下『殿様』もしくは『前作』と表記)のマイナーチェンジ版。同社のクイズゲーム第4作目にあたり、ゲームの舞台を戦国時代の日本から三国時代の中国に移し4人の君主の中から1人を選び、クイズによって天下統一を目指す。 ゲーム内容 『殿様』とほぼ同じ流れで進行、一問一答4択のクイズ形式でゲームが進み、お手つきが全て無くなるか、10問以内にノルマを達成できなった場合、ゲームオーバーとなる。 異なる特殊能力を持った4人の君主から1人を選択し、攻撃する国を選び、ノルマを達成できればその国が領土となる。ゲームは200年の春から開始され4ターンで1年が経過、他国からの外交折衝や侵攻、献帝擁立などのイベントをこなし、全33国を領土とすればエンディングとなる。 + 使用できる君主 劉備玄徳中山靖王・劉勝の末裔。漢室復興の大義を掲げる仁徳の人。義弟である関羽・張飛らと共に荊州に潜む。類稀な人徳の持ち主で、将兵や民衆から深く慕われている。お手つきが増えやすい(少ない得点でお手つきが増える)。 曹操孟徳治世の能雄、乱世の奸雄と呼ばれた三国時代最大の野望家。帝を擁して権力を振るう。武に夏侯惇・夏侯淵、知に荀彧・郭嘉など、優れた配下を多く抱える。クイズが2択・3択になりやすい。 孫権仲謀江東の虎。父・兄の後を継ぎ、呉の土地を治める若き盟主。名軍師・周瑜の補佐で中原を狙う。周瑜・諸葛瑾・陸遜・魯粛・呂蒙など多くの智将を配下に持つ。ジャンルセレクトしやすい。 呂布奉先天下無双の武勇を誇る無法者。関羽・張飛も敵わなかった豪傑。徐州で放浪の日々を送る。弓馬をとっては天下無敵といわれた猛将。「会心の一撃」が出ると正解ポイントが2倍となる。史実では既に死亡しているがゲームでは存命。張遼は残念ながら曹操の配下である。 『殿様』では出陣する(クイズ画面に名前がでる)武将は1P・2Pともに固定されていたが、本作では1プレイヤーの場合は君主もしくは配下の中からランダムで、2プレイヤーの場合は1P側は君主で固定されるが、2P側はランダムで出陣する武将が決定される。基本的に史実で主従関係のあった武将が選ばれるが、他君主の領土を占領していた場合、その君主に属していた武将が出陣武将として選ばれることもある。 + 画像 左・選択君主画面/中・あまり意味のない出陣武将システム/右・孔明を配下にした曹操 一定期間であるが同盟締結が可能となっており、援軍(2択3択/ノルマ減)・貢物(お手つき回復、ジャンルセレクト)など他国君主が攻略の手助けをしてくれる。なお、こちらが相手君主に対して便宜を図ることは無い。イベント扱いのため、プレイヤー側に同盟締結・破棄の選択権は無く、ランダムで相手や援助内容が決まる。 評価点 一部の選択プレイヤーの特殊能力が重複していた前作の問題点を踏まえ、本作では全ての選択プレイヤーの特殊能力が異なる仕様となり、個々の差別化が図られた。 豊作・凶作・軍師仕官など「殿様」にあったイベントに加え、同盟・太守寝返り・玉璽発見・献帝擁護・勅命イベントなどが追加され、かなり歴史シミュレーションゲームを意識した作りとなっている。 敵君主を討ち取ると領土を全て奪える「総取り」を引き続き採用。前作よりも若干発生し易くなっている。 ゲームクリア時にしか表示されなかった正解率がクイズをクリアする毎に表示されるようになった。ただし、コンティニューを繰り返す「ゴリ押しプレイ」している人には辛辣な仕様ではある。 + 画像 各種イベント・右の武将は袁紹 問題点 使えなさ過ぎる呂布。「会心の一撃」による正解ポイント倍消しが彼の特殊能力であるが、クイズ開始前にこの能力が発動しないと意味がなく、正解しても発動しない場合がある。さらに本作は出陣する武将がランダムで決まるため、必ず君主が出陣する2Pモードなら毎回発動のチャンスがあるが、1Pモードで呂布以外が出陣した場合、この能力は全く用をなさない。またランダム発動のため、「ノルマ1の国で発動」という無意味な現象も起こりうる。 + 画像 左・この画面が出ないと会心の一撃が出ない/右・倍消し(中央上部の正解ポイント参照)の瞬間、ただし出ないこともある 選択できる君主が中国東部に集中している。バランス良く日本全土に散らばっていた前作の『殿様』でも九州・東北には将軍がいなかったが、今作は誰を選んでも「中国東部から中国西部へ向かう」という攻略になりがち。 出陣する武将が毎回異なるシステムを採っているが、優秀な武将が出陣するからといってノルマが軽減されるというわけではなく、単にクイズ画面で表示される名前と顔グラが違うだけ。 武将が勝手に出陣することがある。君主のいる国を狙う場合が多く、「勝手に出陣→敵君主を討ち取る→総取り」という図式のコンボは、攻略が容易になる反面、「稼ぎプレイ」をする人にとっては迷惑極まりないものとなっている。わざと誤答を繰り返し、ゲームオーバーにしてしまえば必ず総取りを回避できるが、そこまでするコアなプレイヤーはごく少数。 + 画像 人によっては迷惑な3段コンボ この他、ノルマを達成できないとお手つきの残りに関係なくゲームオーバーとなる、コンティニューしてもスコアリセットされないなど前作にあった問題点がいくつか残されている。 総評 前作よりもイベント面を強化され、より歴史ゲームに近い作りとなった『クイズ三國志 知略の覇者』は、クイズゲームや歴史シミュレーションファンを中心に引き続き支持を受けた。しかし、そうでないゲームファンから見れば、本作はデータを入れ替えただけのマイナーチェンジ版であり、前作ほどのヒットを飛ばすまでには至らず短命に終わり、当時のゲーム雑誌に於いても「前作を超える出来では無い」と厳しい評価を下されていた。(月刊ゲーメスト増刊・オールカプコン1991) しかし、この作品に思い入れがあったのかは知らないが、グラフィックを流用しクイズを麻雀に置き換えた『雀國志・覇王の采牌』が2002年にカプコンより発売されている。出回りが極めて悪いのか、なかなか見かけないが…。 移植版 1992年12月18日にPC98向けの移植版として『クイズ知略の覇者 三国志奇譚』が発売された。『三國志』が光栄の商標に抵触するため、改題されて発売された。業務用とほぼ同様の仕様となっており、演出やBGMの再現度も比較的高い。他のカプコンクイズゲームの移植版にあった移植版独自のモードはない。
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<魏 263年> <蜀漢 263年> <呉 263年>? 263年 景耀六年→炎興元年(蜀漢) 皇帝 劉禅(後主・魏安楽公) 皇后 張氏(前の皇后の妹・車騎將軍張飛の娘) 皇太子 劉璿 三公(蜀漢) 丞相:(空位) 司徒: その他の要職(蜀漢) 錄尚書事: 尚書令: 太傅: 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府: 大将軍:姜維(前衛将軍) 驃騎将軍:? 左車騎将軍:張翼 右車騎將軍:廖化 衛将軍:? 地方官 冀州刺史:張翼 主な事件 六年夏、魏は大いに軍をもよおし、征西將軍鄧艾、鎮西將軍鍾會、雍州刺史諸葛緒に命じて數道より並んで攻め入ってきた。これに左右車騎將軍の張翼、廖化、輔國大將軍董厥等を遣わして拒む。《三国志蜀書後主伝》【特集:魏の蜀討伐戦】 大赦。改元して炎興と為す。《三国志蜀書後主伝》 冬、鄧艾は將軍諸葛瞻を綿竹において破る。光祿大夫の譙周の策を用いて、鄧艾に降る。侍中張紹、光祿大夫譙周、駙馬都尉の鄧良が奉書を奉り、印緩を届けさせた。是日、北地王の劉諶は國亡を傷み、先に妻子を殺してから自殺した。張紹、鄧良は鄧艾に雒縣で会い、鄧艾は書を得て大いに喜び、即ち書を報じて先に張紹、鄧良を還らせた。鄧艾は成都城の北に至り、後主は櫬に自ら縛り、軍壘門で迎えた。鄧艾は縛を解き櫬を焚いて会見を請うた。これにより、承制して後主を驃騎將軍と為す。諸圍守は悉く後主の勅命を受けた後、降った。鄧艾は後主に其故宮に留め、自身は往造した。物資は厳格にしたままいまだ出発しないでいた。《三国志蜀書後主伝》 明年春正月、鄧艾は逮捕され、鍾會が涪から成都に至り亂を作る。鍾會は死に、蜀中の軍は略奪を働き、死喪狼籍、數日してようやく治まった。《三国志蜀書後主伝》左車騎将軍の張翼は混乱に巻き込まれて死去。《三国志蜀書張翼伝》咸熙元年正月、鍾會が成都で乱を作り、劉璿は亂兵に害された。《三国志蜀書二主妃子伝》 誕生者 死没者 劉諶:北地王・自殺。 張翼(字伯恭):左車騎将軍・冀州刺史。鍾會の反乱による混乱に巻き込まれ死去。 劉璿(字文衡。母は王貴人):劉禅の子。鍾會の反乱による混乱に巻き込まれ死去。 ▲PAGE TOP
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<魏 239年> <蜀漢 239年> <呉 239年> 239年 赤烏二年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 皇后 (空位) 皇太子 孫登 三公(呉) 丞相:顧雍(前太常) その他の要職(呉) 太常:潘濬? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:全琮 上大將軍:陸遜? 主な事件 二年春正月、詔して「郎吏者,宿之臣,古之命士也.閒者所用頗非其人.自今選三署皆依四科,不得以虛辭相飾《三国志呉書呉主権伝に引く江表傳》 三月、使者の羊ドウ、鄭冑、將軍の孫怡を遼東に遣わして魏の守將の張持、高慮等を撃ち、男女を捕虜と為す。注1《三国志呉書呉主権伝》 三月、零陵で甘露が降ったと伝えて来た。《三国志呉書呉主権伝》 夏五月、城沙羡。《三国志呉書呉主権伝》 冬十月、將軍の蔣秘が南に夷賊を討つ。秘かに所領都督の廖式は臨賀太守の嚴綱等を殺し、平南將軍を自称する。弟の潛とともに零陵、桂陽を攻めた。交州、蒼梧、鬱林の諸郡は動揺し、衆は數萬人に及んだ。將軍の呂岱、唐咨を遣わして之を討ち一年余で皆破った。《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 注 *注1鄭冑字敬先。沛國人。父の鄭札は才學博達にして孫權が驃騎將軍になると札を從事中郎と為し、張昭、孫邵とともに朝儀を定める。冑はその少子。文武に優れ若いときから名を知られていた。賢良に挙げられ建安太守となる。呂壹の賓客が郡で法を犯したとき冑は捕らえて獄に繋いだ。壹は恨みを抱き後に密かに冑を誹る。權は大いに怒り冑を召還する。潘濬、陳表は許しを請うた。後に宣信校尉となる。公孫淵を救いに行く先で魏に破られ、還えって執金吾となる。子の鄭豐字曼季は文學操行で陸雲とともに善しとされた。雲と詩をやり取りし、司空の張華が辟招するも就任前に卒す。裴松之が聞いたところでは、孫怡は東州人で孫權の宗族ではない《三国志呉書呉主権伝に引く文士傳》 ▲PAGE TOP 238年<< >>240年
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<魏 260年> <蜀漢 260年> <呉 260年> 260年 永安三年(呉) 皇帝 孫休(呉景帝) 皇后 (空位) 皇太子 (空位) 三公(呉) 丞相:? 太傅:? その他の要職(呉) 太常:? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:丁密(257?~262) 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:劉纂? 衛将軍:? 上大將軍:? 主な事件 三年春三月、西陵で赤烏が見られたと伝えて来た。《三国志呉書三嗣主伝孫休》 秋、用都尉嚴密議,浦里塘を作る。會稽郡で王の孫亮が天子に還るという謠言があった。孫亮の宮人が孫亮が巫を使って禱祠を行い、惡言があったと告げた。有司は事情を問い、孫亮を貶めて候官侯と為す。任国に赴く途中自殺した。送者を処罰する。《三国志呉書三嗣主伝孫休》或るいは孫休が鴆毒で殺ろしたとも言われた。晉の太康年中に吳の故の少府で丹楊の戴顒が孫亮の喪を迎え、賴鄉に葬る《三国志呉書三嗣主伝孫休に引く吳歷》 會稽南部を建安郡と為し、宜都を分けて建平郡を置く《三国志呉書三嗣主伝孫休》 是歲、建德縣において大鼎を得る《三国志呉書三嗣主伝孫休に引く吳歷》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 259年<< >>261年
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<魏 240年> <蜀漢 240年> <呉 240年> 240年 赤烏三年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 皇后 (空位) 皇太子 孫登 三公(呉) 丞相:顧雍(前太常) その他の要職(呉) 太常:潘濬? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:全琮 上大將軍:陸遜? 主な事件 三年春正月、詔して「君は民があらざれば立たず、民は穀があらざれば生きず。この頃は民は征役が多く、今年には水旱もあり、穀は損害を蒙った。官吏にあるいは良くない者がいて、民を時に侵奪する。自今以來、督軍郡守は非法を謹察し、農桑の時にあたっては役事をもって民を憂えさせないように」《三国志呉書呉主権伝》 夏四月、大赦。《三国志呉書呉主権伝》 四月、諸郡縣に詔して城郭を治し、譙樓を起こし、發渠を穿塹し、盜賊に備えた《三国志呉書呉主権伝》 冬十一月、民は饑え、詔して倉廩を開き、貧窮な者に振る舞った《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 239年<< >>241年
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恋姫†無双 ~ドキッ☆乙女だらけの三国志演義~ BaseSon 2007年1月26日 Windows 三国志の武将を萌える女の子にしてみたエロゲーでジャンルは『妄想満載 煩悩爆発 純愛歴史AVG』 恋姫†夢想 ~ドキッ☆乙女だらけの三国志演義~ イエティ 2008.11.20 PS2 パソコンからコンシューマーへの移植に伴い、普通の恋愛ADVになった 名前も「無双」から「夢想」になった 関連ゲーム 真・恋姫†無双 ~乙女繚乱☆三国志演義~ 真・恋姫†無双 ~萌将伝~
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<魏 254年> <蜀漢 254年> <呉 254年> 254年 五鳳元年(呉) 皇帝 孫亮 皇后 全氏(全尚の娘) 皇太子 (空位) 三公(呉) 丞相:孫峻 太傅:? その他の要職(呉) 太常:滕胤? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:呂岱(前上大將軍)? 大将軍:諸葛恪(前威北將軍)? 驃騎将軍:朱據 車騎将軍:? 衛将軍:滕胤? 上大將軍:? 主な事件 五鳳元年夏、大水。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 秋、吳侯の孫英が孫峻の謀殺せんとするが発覚した。孫英は自殺した。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 冬十一月、星茀于斗、牛《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 是歲、交阯で稗草が稻に変化した《三国志呉書三嗣主伝孫亮に引く江表傳》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 253年<< >>255年
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このページは数あるニコニコ歴史戦略ゲー動画の登場人物について、各動画内での列伝をまとめていくものとして用意しました。 主役級の活躍を見せた人物はもとより、名脇役、好敵手からネタ☆キャラまで幅広く紹介されるページになることを願います。 ここでは三国志の人物について扱います。 参考用リンク先(需要のありそうなものがあれば随時追加推奨) Category 三国志 - Wikipedia :史実についての参考リンク 幻想水滸伝・三国志を知らないけど、興味ある人の為の解説サイト ニコニコ歴史戦略ゲー 武将紹介 公開マイリスト :史実武将紹介動画 武将別解説 - 三国編 :iM@S架空戦記シリーズ補完wikiより三国武将紹介 『三国志の登場人物の一覧』 :ニコニコ大百科での三国志人物項目一覧 武将別伝(三国志) ア行 ハ行 ハ ヒ フ ヘ ホ カ行 カ キ ク ケ コ マ行 サ行 サ シ ス セ ソ ヤ行 タ行 タ チ ツ テ ト ラ行 ラ リ ル レ ロ ナ行 ワ行 費禕(ヒイ) 麋竺(ビジク) 糜芳(ビホウ) 費禕 (ヒイ) [部分編集] (?~253)字は文偉(ブンイ)。江夏郡の生まれ。益州牧の劉璋とは遠縁にあたり、そのつてで益州へと遊学。劉備が入蜀すると劉備に仕え、名声を得た。不仲だった楊儀と魏延の間をたびたび取り持ったという。 諸葛亮、蒋琬、董允と共に「蜀の四相」に数えられ、蜀の内政を支えた。後に魏の降将に殺害された。 三國志IX 統率 74 武力 22 知力 83 政治 92 三國志11 統率 77 武力 30 知力 83 政治 92 魅力 83 能吏/弩兵A、兵器A 上へ 麋竺 (ビジク) [部分編集] (?~221)字は子仲(シチュウ)。徐州の富豪で、徐州牧であった陶謙に仕える。陶謙死後は劉備に仕え、妹を劉備に嫁がせた。劉備が益州に入ると、諸葛亮を上回る官位を得た。 弟の糜芳が関羽を裏切ったことに憤り、その後間もなく病死した。 弓馬に通じていたというが、軍を率いることは無かった。 三國志IX 統率 32 武力 39 知力 71 政治 83 三國志11 統率 33 武力 29 知力 77 政治 83 魅力 85 富豪 上へ 糜芳 (ビホウ) [部分編集] (?~?、演義では222年没)徐州の富豪、糜竺の弟。陶謙の病死後、兄と共に劉備に仕え、以後武官として二十年来付き従う。 しかし、孫権の荊州侵略に際して呂蒙に降伏。兄・糜竺は弟の裏切りに激怒し、憂慮の内に病死したという。 史実ではその後も呉の臣として活躍した。演義では蜀に帰参するが関羽を見殺しにしたという理由で劉備に処断される。 三國志IX 統率 55 武力 56 知力 31 政治 25 三國志11 統率 54 武力 61 知力 32 政治 23 魅力 23 騎将張繍の野望 【三國志Ⅸ】 +張繍軍武将。特別項目あり 凡将には凡将の意地がある このうp主は糜芳擁護派なので、特別項目を作ってみた。 うp主の顔グラに使われるほど愛着があるようで、第二十三話よりキャラとして登場。第二十五話より解説が入った。 以降はうp主の解説である。 ※CAUTION! 糜芳を擁護する都合上、某髭と某ドSに対して手厳しい表現をしている部分があります。 うp主は別にこの二人が嫌いな訳ではないのですが。ご理解下さい。っていうか、いつもより主観丸出しです。 そんな訳で、ハイパー擁護タイム始まるよー! 引き返すなら今の内だぜ! +ハイパー擁護タイム 糜竺・糜芳の家は先祖代々の富豪であり、裕福な生活をしていた。 陶謙が病に倒れると、糜竺や陳登は劉備を後継者として擁立したが、当然糜芳もこれに賛同していたものと思われる。 呂布の裏切りによって劉備が敗走すると、彼に惚れ込んでいた糜竺は私財を投げ打って貢献し、妹を劉備に嫁がせている。 これによって糜芳も外戚となる。 その後、劉備は曹操を頼るが、このとき曹操は糜竺を太守、糜芳を城国の相に任じている。 要は曹操お得意のヘッドハンティングで、糜芳は曹操が欲しがるほどの能力があったと窺える。 糜家は、糜竺だけでなく、糜芳もそれなりの知名度があったのだろうか。 ともかく、糜芳は兄と共にその誘いを蹴り、後に劉備が曹操に反逆した際は、官職を捨てて劉備に付く道を選んでいる。 その後に裏切った一点だけを見て、この糜芳の行動を 「どうせ単に兄について来ただけだろ」と的外れな意見が出ることもあるが ……そんな生半可な志で、その後二十年間、劉備の一番キツかった時期に付き従える訳ないだろう常考。 曹操から別々に官職を与えられている以上、糜芳は自分だけでも曹操に仕える選択肢はあった。 実際、陳登や陳葦など、同時期に劉備から曹操に乗り換えた人間はいた。 それをしなかったのは、一重に劉備への忠義があったから、それ以外に考えようが無いと思うのだが、どうだろうか。 徐州を離れた後からの糜芳の記述は、例の関羽の所まで飛んでいる。 ……が、これを見て 「糜芳はその間何もしていなかった役立たず」と決め付けるのは、やはり早計だろう。 陳到の紹介のときも述べたが、この時の劉備軍の資料はどうも少なかったようで、 劉備放浪~赤壁~荊州平定戦のあたりは、殆ど劉備本人の動きしか書かれていない。 例えば、荊州四英傑の記述も『降伏した』のみで、誰が誰を降したのかすらわからない有様。 陳到にしろ糜芳にしろ、関羽・張飛に次ぐ古参の軍人で、当時人員不足だった劉備軍に貢献していない筈が無いのだが、 如何せん動きが地味だったのか、今となってはそれを知る事は出来ない。 糜芳の不運は、益州戦線や漢中争奪戦に参加していなかったことだろう。 この頃になると、それぞれの武将の活躍も詳しく書かれてくるのだが、この時期の糜芳は、関羽と共に荊州の留守役を勤めていた。 もちろん、当時ギクシャクした関係だった呉に備えた、重要な任務ではあるのだが。 関羽が守る襄陽では、(楽進ら率いる)魏軍の侵攻があり、荊南においては、呉が長沙・桂陽・零領を奪うなどの争いがあった。 しかし、糜芳が太守をしていた南郡(江陵)については、どうやら大きな戦闘は無かったようで、 やはり糜芳の活躍の記述は残っていない。 ……で、糜芳は果たして劉備に冷遇されていたのかという問題だが。 確かに、兄の糜竺は蜀平定時に孔明よりも上の地位を授けられているなど、厚遇されていたのと比べると、 南郡太守として荊州都督である関羽の配下に組み込まれていた糜芳の扱いは、良くないように見える。 が、この南郡太守は、蔡瑁・周瑜・程普といった面々が歴任していたものであり、その内の江陵は対呉の最前線と、むしろ重要拠点だった。 益州平定前は、関羽は襄陽太守だったという事も考慮すれば、決して低い役職ではないだろう。 劉備は、手元に置くよりも、糜芳に前線での活躍を期待していたのではないだろうか。 一応、人を見る目では定評のある劉備だし。 最古参の一人という事もあり、少なくとも劉備からは信頼されていたと見るべきだろう。 ……そしてその信頼を得る程度の武功はあったと、個人的に推測している。 ともかく、糜芳と関羽は同格とは行かないまでも、完全に主従関係にあった訳ではない。 ここに、糜芳を配下だと認識している関羽と、あくまで劉備の家臣のつもりの糜芳との間で、 何らかの軋轢が生じるのは想像に難くない。 いずれにせよ、「士大夫に傲慢」と記される関羽と、糜芳・士仁の仲は険悪だった、と多くの資料に記されている。 いくら嫌いな士大夫だからって、仮にも外戚の関係にあるかつての恩人を軽んじる関羽ってどうなんだと思わないでもない。 糜芳にその立場を笠に着る態度があったとでも言うならともかく、史書にはそんな記述は見当たらないし。 荊州においては、関羽が都督、糜芳が南郡太守、士仁は将軍として公安を守るという体制になっていた。 糜芳が関羽との間に起こしたとされるイザコザは、史書によってバラバラである。 関羽伝によれば、樊城攻めの際、糜芳・士仁が軍需物資を提供するのみで全力支援をしなかったため、 関羽が「あいつら帰ったら殺す……」と発言し、糜芳・士仁はそれを恐れたとある。 また呂蒙伝では、南郡城で火事が起こって兵器が消失し、関羽は糜芳(士仁の名前は無い)を激しく責め立て、 これを理由に糜芳は呉に通じた、と記されている。 ただこれらの記述は、(恐らく)関羽サイドの見解であって、少なくとも糜芳・士仁は後方支援はきちんとしていた筈。 要は、関羽は「援軍よこせよ!」と言いたかったのだろう。ただ、隣接している呉の動きが不穏な以上、 江陵の守備を任された糜芳が(後に劉封・孟達が関羽に援軍を送らなかったのと同じ理由で)兵は裂けないと判断しても、 仕方が無いのではなかろうか。(糜芳は呂蒙に備えて南郡太守に任命された、とある) 失火の件については、トップの糜芳が責任を取らされるのは当然だろうけど。 ただ、不可解なことに、その後も関羽は糜芳・士仁をそのまま守備役に置いている。 正直、処罰したいほど憎んでいる相手に後方の守備を任せるというのは、理解しがたい。 「俺、この戦争が終わったら糜芳を処罰するんだ……」 みたいな事を言っておいて、その糜芳に任せておけば後方は安心、と本当に思っていたのだとしたら 関羽の脳内は相当「春ですよー」な事になるのではないか。 もしくは、関羽には南郡の守備の重要性がわかっていなかったか。 いくらなんでも、関羽がそこまでトンチキとは思いたくないのだが……。 個人的には、関羽と糜芳には決裂に到るほどの確執は無かった、と考えた方が、双方に角が立たず楽なんだけど。 その分、糜芳の守る南郡の防備は相当固かった様で、一計を案じた呂蒙は病気と称して帰還する。 代わりにまだ知名度の低い陸遜を派遣し、陸遜はひたすら関羽に遜(へりくだ)った為、 油断した関羽は、江陵・公安の守備兵を前線に投入する。 これを見るや、呂蒙は敵に悟られぬよう密かに兵を進め、一気に公安城下を包囲する。 士仁は篭城したものの、戦力差は歴然で、虞翻の説得によって涙ながらに開城。 江陵を守る糜芳も抗戦しようとしたが、士仁が呂蒙と共にいるのを見ると、どうにもならないと感じたのか、酒と肉を用意して降伏した。 ……確かに糜芳と関羽は不仲だったが、彼があっさり降伏した最大の理由は、 江陵の守備の弱体化と、呂蒙の迅速な行軍の為、とてもマトモに戦える状態ではなかったから、ではないだろうか? (しかも、守備弱体化の原因は、関羽が前線に兵を引き抜いた事である) たとえ士仁・糜芳が全力で抗戦したところで、長くはもたなかっただろうし、関羽が死ぬ結果には変わらなかったはず。 防備を薄くした時点で、糜芳が裏切る・裏切らないに関わらず、関羽の敗北は決まっていたのでは。 ともかく糜芳は呉に降り、関羽は死んだ。 これを恥じて兄が悶死した事については、糜芳は全力で反省すべきだろうが。 この争いの際に呉に降った糜芳・士仁・潘濬・郝普の四人について、 蜀将の活躍を記した『季漢輔臣賛』(要は、蜀の人間について書かれた蜀マンセー本)では、 「私情で関羽を裏切って、蜀呉両方の笑い者になった」と記されている。 ……が、この記述を鵜呑みにして 「ほら見ろ! やっぱ糜芳は当時から叩かれてたんじゃねーか!」 と決め付けるのは(ry そもそも、これが書かれた当時から、既に関羽の神格化は始まっていた。 そのため、この四将に対する記述も、著者の 「よくも関帝を裏切りやがったな! テメーらなんかボロカスに叩いてやる!」 的な感情が入っていた可能性は、充分にあると思う。 ……演義で、関羽の死に関わっていた人間が、酷い死に様に変えられていた様に。 特に、この内の一人、潘濬は、関羽の死後多くの人間が呉に降る中で一人出頭せず、 孫権にベッドごと連れて来られて泣く泣く降伏した、という忠義者のエピソードがあり、 内政、反乱討伐に辣腕を振るい、丞相候補にまでなった名宰相。 そんな人間が「私情で関羽を裏切り」、少なくとも「呉で笑い者になった」はずがない。 ……そのため、この四将に対する評価は余り信用できないものと、個人的に判断している。 まあ、「潘濬は叩かれていないとしても、それが糜芳が叩かれていない証明にはならない」という意見もあるだろう。 それを裏付ける一つとして、呉の虞翻の糜芳に対する罵倒のエピソードがある。 時期は不明だが、糜芳が船に乗って虞翻と一緒に出かけたことがあった。 糜芳の船には人がたくさん乗っていたので、水先案内人が虞翻の船に「糜芳将軍の船を避けよ」と言うと、虞翻は 「あ? テメーみたいな不義理者がどの面下げて殿に仕える気じゃボケ。お前なんぞ将軍を名乗る資格はねーよダラズ。 (避けるんだったらテメーが避けろクズ)」(意訳) といきなり怒鳴りだした。糜芳は戸を閉ざして返答しなかったが、急いで虞翻の船を避けたという。 また別の時、虞翻が車に乗って出かけ、糜芳の営舎を通り抜けようとしたが、門が閉じていた事で車を通す事が出来なかった。 すると虞翻はまた怒って 「テメー関羽裏切った時はあっさり門開けておいて、今俺が門通ろうとしてる時に限って閉めるとか馬鹿なの? 死ぬの? オラァ! とっと開けろや糜芳!」(意訳)と言うと、糜芳は慙愧の色を見せたと言う。 ……糜芳の死因が心労だったらどうしよう。 とりあえずその裏切りの為、虞翻に嫌われていたのは確かなようだ。 ただ、虞翻は関羽に投降した干禁が呉に送還された際も、孫権が歓迎しているその横で 「は? こんな負け犬の屑、丁重に取り扱う必要なんか無いっしょwww むしろブチ殺して見せしめにしましょうぜwww」(意訳) と言って孫権を不快にさせた真性のKYで、口の悪さには定評のある男。 結局、余りにもアレな発言を繰り返して、とうとうキレた孫権に左遷されるという最後を迎えている。 干禁や糜芳に対する苛めも、裏切りに対する義憤と言うよりも、単純に罵倒したかったから、というように見えるのは穿ちすぎだろうか。 ともかく、虞翻が糜芳を嫌っていたからといって、呉全体が糜芳をそんな目で見ていたとは限らない。 ……むしろコイツの意見が呉の総意だとしたら、もう呉は末期だろ。 ……というか、士仁を説得して裏切らせ、糜芳が降伏する原因を作ったのは、他ならぬ虞翻なのだが。 果たして虞翻に糜芳を貶す資格があるのやら。 その後223年に、賀斉の配下として船団を率いて、晋宗の討伐に赴いている。 この晋宗は、呉から魏に寝返った将で、たびたび呉に侵攻を繰り返し、孫権をイラつかせていた厄介な相手だったが。 賀斉配下として、糜芳は鮮干丹・劉召と共に晋宗を襲撃し、難なく生け捕りにしたと記されている。 この当時の糜芳の官職的な立場だが。 賀斉は異民族討伐で活躍し、後将軍・徐州牧の座についている孫呉でもトップクラスの将軍、ていうか神。 上官の立場なのは当然だろう。 劉召は、後に曹休との戦いで活躍したとある。鮮干丹は、夷陵の戦いの際、朱然や韓当達と共に陸遜の配下として名を連ねている武将。 この面々の部下・同僚というのは、悪いポジションではない。 糜芳の呉での爵位は不明だが。 虞翻のエピソードで、少なくとも将軍職についている事が分かるので、呉における糜芳の地位はそれなりにあったと推測できる。 少なくとも、重臣の虞翻といっしょに出かけられるぐらいには。 没年は不明。 演義では夷陵の戦いの際、士仁と共に返り忠を企てて、劉備に許されず処刑されているが、当然捏z……創作。 実際は、この時賀斉配下として魏と呉の国境付近にいたはずなので、夷陵の戦いに参加することは物理的に不可能だっただろう。 あの江陵の一件の際、糜芳が抗戦して城を枕に討ち死にしていれば、現在における彼の評価は全く違ったものになっていただろう。 ただ、こちらは勝てる見込みが全く無く、上司からは「帰ったら処罰」と脅され、その危機の原因を作ったのも上司の行動、 さらに同僚は殆ど戦わず降伏。 正直この状況で糜芳に「関羽のために頑張って死ね!」と言うのは、あまりに酷では無かったか。 まあ、どんな理由があろうと裏切りは裏切り。それ自体は非難されても仕方が無い事。 ……が、そうなると他にも命惜しさに投降した割りに、大して非難されていない武将なんていくらでもいるわけで。 魏で言えば張郃、徐晃。蜀では三国鼎立後も王平や姜維など、こういった名将でもあっさりと裏切った経緯がある。 にもかかわらず、あんまり非難されていない。 「生姜の裏切りは綺麗な裏切り、糜芳の裏切りは汚い裏切り」と言うのは無いだろう。 とは言え、糜芳にとって不幸だったのは、裏切った相手が後に神に祭り上げられた事だろう。 ここまで糜芳が卑劣漢扱いされるのは、関羽が死後神になったからに他ならない。 歴史とは不公平と言うかなんと言うか……。 何十年も主君に仕えた古参の降伏、関羽との関連性、虞翻に罵倒されたりと、こうして見ると干禁と糜芳は似ているような気がする。 勿論、功績では干禁の方が上だが。 まあ、末路が悲惨だった干禁に比べれば、活躍の記録が残ってる糜芳はまだマシだろう。 呉で大活躍だった潘濬に比べると見劣りするものの、 降ってからの記述が一切無い士仁、後に自殺に追い込まれた郝普に比べれば、相当恵まれている。 劉備・曹操・孫権から一定の評価を受けており、中々面白い人生を送ったとも言える。 グダグダ語ったけど、結論としては、 裏切りを卑劣と見るかは個人の判断に任せるとして、決して一般的なイメージほど無能ではないという事を考慮してもらえば幸いです。 上へ 糜芳の擁護解説の濃厚さに感心しました。(笑) -- 名無しさん (2009-05-26 01 26 11) 何度見ても糜芳の解説には感動するものがあるな・・・ -- 名無しさん (2009-05-27 13 32 53) 蜀贔屓の横山でも糜芳は先に降伏した士仁に対し最初罵倒してるしな。あの横山総集編辞典でも荊州失陥は関羽が一番悪いとしてたし少なくてもこの点では擁護されんとおかしい。今で言うなら古参の中堅だが上司に恵まれなかった中間管理職でやむなく転職というべきか。 -- 名無しさん (2009-06-15 07 02 38) 記事の破壊はやめてください。 -- 名無しさん (2010-12-10 23 10 34) 除去された記事を復帰。このコメント欄にもある通り、「解説の濃厚さ」「感動するものがある」と読者から評されている記述を一方的に除去するのは妥当ではない。異存があるならば本コメント欄に提起するべき。 -- 名無しさん (2010-12-15 03 03 56) 名前 コメント
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【元ネタ】三国志 【CLASS】アサシン 【マスター】 【真名】荀攸 公達 【性別】男性 【身長・体重】180cm・69kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力D 耐久E 敏捷C 魔力B 幸運A 宝具C+ 【クラス別スキル】 気配遮断:C サーヴァントとしての気配を断つ。隠密行動に適している。 【固有スキル】 軍師の忠言:A 軍師系サーヴァントに与えられるスキル。 状況を把握、分析することにより味方側に正しい助言を与えることができる。 ランクが上がれば上がるほどその助言の正しい確率は向上し、Aランクであれば不測の事態がなければ100%的中する。 軍師の指揮:B+ 軍師系サーヴァントに与えられるスキル。自己を含めた軍としての力を最大限に引き出す。 B+ランクであれば、倍する敵にも臆さない強兵に等しい力を持つ。 無力の殻:C 必要とあらば自らの英知を隠し、愚鈍を装う。 このスキルの発動中は他の固有スキルや宝具が発動せず、能力値も落ち込み、サーヴァントとして感知されにくくなる。 【宝具】 『奇策十二編(きさく、よにのこらず)』 ランク:C+ 種別:対人~対軍宝具 レンジ:- 最大捕捉:- 荀攸が打ち立て、友人の鍾繇が編纂せんとするも果たせず、後世に伝わらなかった奇策十二編が昇華された宝具。 状況を荀攸の奇策によって変化させ、さらにそれが“如何なる奇策だったか”という記憶を奪い取る、という二つの効果を持つ。 自分以外が行う何らかの判定後に割り込んで発動することができる。 判定前に状況を巻き戻し、その成功率に±25の範囲で補正をかけて再度判定を行わせる。 連続使用も可能だが、この宝具には残数があり、合計で十二回までしか発動できない。 【解説】 後漢末期、三国時代において曹操軍の筆頭軍師。 『王佐の才』こと荀彧の年嵩の甥であり、特に戦術面で曹操軍に貢献した。 はじめ、献帝を傀儡に暴政を敷く董卓を除かんと仲間たちと共に暗殺計画を練るが、実行前に発覚し、投獄される。 だが、処刑される前に董卓が王允らによって殺害されたため開放され、 しばらく荊州に留まった後、曹操の招きに応じて彼の軍師となった。 以後、荀攸は曹操の出陣に同道し、戦況の洞察と策謀を以って貢献する。 張繍征伐では兵糧供給を断つ策を進言、呂布との戦いでは速攻を進言して曹操軍を勝利へと導いた。 官渡の戦いでは策略を以って袁紹軍の猛将である顔良・文醜を討死させるのみならず 袁紹の重臣、許攸が寝返って提供した機密情報を罠ではないかと疑う曹操に対し、賈詡と共に疑うべきではないと進言し、 官渡の戦いの勝利を決定づけるという大功を挙げている。 以後も多くの戦いで曹操の軍勢に同道して功績を挙げ、 ついには荀彧に変わる曹操の腹心格としての地位を獲得し、魏の成立を手助けするようになる。 荀彧と異なり忠誠を貫いた荀攸は、曹操に終生信頼され 「荀攸は一見愚鈍に見えても、内側には英知を有し、臆病に見えて勇敢であり、善をひけらかさず、面倒な事を人に押し付けない。 その英知には近づけるけど、愚鈍さには近づけない。顔回や甯武子でも荀攸以上ではないだろう」と高く評価された。 演義で描かれる最期は、曹操が魏王になろうとするのに反対して疎まれ、苦悶の内に病死するというものだが、 正史ではその二年前にすでに死去している。
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